何のために生まれ、何のために生きているのか?
山本です。
生きている間に苦しい時期、地獄のような時期は誰にでもあります。
私もそれがありました。
今から10年前のことです。
それはとてもとても長く感じたし、永遠とも取れるくらい、
先が見えない状態でした。
先が見えないほど生きていくとき辛いことはありません。
どんなに辛くとも先が見えるからこそ耐えれるわけですから。
しかし、どのようなことにも永遠はありません。
雨が降っていれば必ずやむし、夜はやがて朝を迎えます。
肝心なことはその雨や夜の間に、
自分の中でどのようなことを感じることができるか?
いかに本当の自分と向かい合えるかということです。
これをしなければ、朝を迎えることができたとしても、
劇的な変化にはなりません。
例えば、何とか食べれる状態のままかもしれない。
皆さんよくご存知のことだと思うのですが、
私は、事業が最低のとき、食うことができず、
やむなく代行運転をしていました。
今日の銭が欲しかったからです。
今日の生活費が欲しかったからです。
日銭に飢えていました。
実際、最低の賃金でしたが、今日のパンを買うことはできました。
今日の水分を満たすことは何とかできました。
でも、劇的な明日を迎える希望などどこにもありません。
というよりも、ますます精神が蝕まれていくような日々でした。
代行運転が悪いわけではありません。
ただ、私は代行運転が生きがいではなかった。
その職業で私自身を生かせることができなかった。
もしかするとあのときに、他の職を求めて、
お金だけを求めて、まったく新しい業界へ
まったく知らない会社に就職できていたとしたら・・・。
もしかすると新しい世界が広がったかもしれません。
しかし、「生活のため」だけの未来しか待っていなかった気がする。
私が代行運転で、今日の銭だけを追ったのは、
単に就職が無かったからではない。
どのような状態に会ったとしても、健康な心身があれば、
この日本ではどのような職業でもある。
生きていくことはできるはず。
しかし、私はあえて就職活動をしなかった。
それにはなにか理由があったのだろうか?
当時の私の心理状態はそんな余裕も無かったと思う。
けれども、どこかで「自分が生きていく道」を模索していたのかもしれない。
今の現状に「怒り」を感じ、最低の生活の中でもがき、
自分が本当にいかせる自分を探していたのかもしれない。
どのような最低のときでも覚えていて欲しい。
人には誰にでもその人にしかできないことかある。
その人が生まれた価値は、その人のものであって、
他の人がけっして真似のできるものではない。
どんなときにもあきらめないで欲しい。
心から私は願っている。
どんな人も生かされているのだ。
あなたにしかできないことがあるはずだ。
あなたにしか輝けない場所があるはずだ。
そして、それに気づくまでのほんのちょっとの時間を
神様があなたを試しているのだ。
だからこそ絶対に負けないで欲しい。