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2008年03月30日

今の自分にできること。

「3年後の自分のために、今何ができるのだろう?」
と考えたことはありませんか。

人は夢があり、それを達成したときの「ご褒美」が
あるとなるとがむしゃらになれます。

「夢」という言葉を使うと実現不可能なニュアンスも含まれるので、
最初から諦める人もいますが、「夢」のないところに、
「可能性」や「ご褒美」はないのです。

何をやってもうまくいかない時があると思えば、
何もかもがうまく行きすぎて不安になる時もある。
どちらにしても不満が出てしまうのは何故だろう?

お金持ちの方がいいし、物事が思い通りになる方がいいし、
夢は叶えられ望むものがすぐに与えられた方が幸せって思うのに、
それを願う自分がどこか空しくなってしまうのは何故だろう?

多分そこには“闘い”というものがないからだと思う。
人が自らすすんで行動するということは、
そこに“志”や“情熱”というものがあるから。

情熱とは“怒り”…生命が危険にさらされても
恐怖に立ち向う純粋な憤り。
だから情熱がないと不安に身がすくみ妥協し闘う意志がなくなる。

ケンカはよくないと大人は言う、
でも情熱が傾けられる場所はいつもケンカなのです。
相手を否定し消滅させる寛容のない暴力とは違う、
パンパンと相手とぶつけ合う自分の魂。

闘いを避けると当たり前のことが当り前に出来なくなる。
だから幸福が当り前に感じれなくなる。
そして、自分をぶつけるものがなくなれば、
もやもやとした不満を溜めて歯切れ悪く心は歪む。

世の中がつまらないのは、自分がつまらないから。
楽しさを望むなら、闘わなくてはならない。

もしかすると、闘うことは、
それはゴールのないマラソンを強いられるようなもので、
どこまで行っても到達しないのです。
だから「たら・れば」と言い訳ばかりで
諦めてしまう場合が殆どでしょう。

「こんなことを続けていていったい何になるというのだろう?」
と夢を忘れて考えることがありますが、
自分の心にはいつも「何にでもなる」と念じるようにしています。

実際、何かを経験していると、
後になってまったく分野の違う場合でも
それが生かされる場合が必ずあります。

なんでもいいから経験するという考えよりは、
どんな経験をしたとしても最終到達点である「夢」に
行きつくと考えられれば、それこそが「才能」だと思います。

2008年03月11日

続けることこそ、本当の才能。

山本です。

知りすぎて超えられない壁がある。 
知らないからこそ超えられる壁もある。
でも、知り過ぎた壁をもし越えることができたとしたら、
それが独創を生み出します。

不思議なことに、一人の人間の失敗には限りがあるのに、
成功には限りがありません。

だから、最後まで失敗してしまえば、弾を撃ち尽くした拳銃のように
安全なのかもしれない。
失敗はとても具体的なのに、成功はとても抽象的なので、
目に見えるものより見えないものの方に価値をおけば、
空想や想像の力を借りて穴埋めをすることができます。

生きることは知ることで、知ることは生きる歓びなのだと誰かが言う。
何かを期待して待ち焦がれることも愉しみの半分。
期待しても思い通りにならないかもしれない、
でも待ち焦がれる愉しさは誰にも止めることができない。

何もかも知っていたらワクワクしないし、「想像の余地」がないと、
面白いことを見つける歓びを感じることは難しい。

何かに努力し続けることは、想像する余裕さを失ってしまえば
ただの徒労に終わる。

あらゆる才能はそれを行う能力よりも、
気持ちを持続させる「覚悟」によって、初めて活かされるもので、
何かを犠牲にしたり失ったりする恐怖が目の前に“壁”として
見えたとしてもそれを呑み込む必要があると思うのです。

物事は愉しもうと思えば、どんな時でも愉しめるもの…
もちろん「愉しもう!」とダイヤモンドよりも固く意志を
決めなければなりません。

もしそれができたとしたら、あらゆる才能は芽を出さずには
いられなくなるはずです。

「続ける才能」は、能力に対する自信よりも、“能力に挑む心”によって、
可能性という目に見えない世界を創りあげていくようです。