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「頑張ってるんだ。」という言葉の本当の意味は?

山本です。

いつくらいからだろう?
「最近、バタバタしていて。」とか、
「忙しいな。」とか、
「結構頑張っているな。」などと、
自分自身で妙に納得したり、自分をほめてみたりしている。

頑張っているからそれなりの結果も出ている。それにある程度満足もしている。
自分で限界点を決めているわけではなく、もっともっと足りない部分はないだろうかとは考えている。

私自身、やりたいことは山ほどあって、構想をマインドマップに書いたりして、
その書き込んだ紙は30枚を超えている。
いつまでに達成するかを具体的に目標設定し、そのためにはいつまでにどのような
状態になっていなければならないと、常に自分に緩やかな階段を設定し、今日・明日の行動を
システム手帳に書き込むようにしている。

しかし、その予定が最近、少しずつずれ始めている。
その「ずれ」はある程度仕方の無いことだとは正直感じている。
「決して言い訳ではない。できない言い訳をするより、できる方法を考えてるんだ。」と。
もうこの時点でいい訳じみている。

何度か、このブログでも紹介をしたことがあるが、私のあるクライアントさん。
広島のある地方都市で活躍をしている。
彼は今、地元でダントツだ。それでも、満足を全然していない。
満足どころか、不満たらたらだ。吸収できるものに対しては、どこまでも貪欲だ。

私は今、リフォームの専門特化したチラシを作成している。ほぼ完成した。
このチラシは半年以上前から構想を暖めていた。
半年も掛かるほどの物か?と言われると、まったくの嘘になる。
やる気であれば、1週間で完成できるものだ。しかし、なかなか重い腰が上がらなかった。
私にとっては、やるべき事柄の優先順位の中で、後方だったからでもある。
しかし、やらなければならない事項で、半年も掛かってはいけないものであった。

このチラシ作りに、ようやく重たい腰を上げたのは彼のおかげだ。
ある意味、彼にせかされた。
「山本さんのを参考にしたかったのですが、山本さんが忙しいなら、自分でやりますよ。」
の一言で私は目覚めさせてもらった。「これではいけない。」と・・・。

がむしゃらに努力をしているつもりだった。
よくやってるなと自分に満足していた。
ある意味、死に物狂いだったといえるかもしれない。

でも、本当に死に物狂いだっただろうか?

私自身の貧乏時代、どん底時代はどうだっただろう?
死に物狂いどころではない。
殺されるくらい頑張っていた。
これ以上はできないから、これでだめだったら殺してくれ。と、言わんばかりだった。

考える事だってそうだ。これ以上考えることができない。と思った上に考えた。
だから発想の源が培われた。

時間だってそうだ。眠るのが惜しいというところまで頑張って、まだ、まだ、朝にはならない。
と言い聞かせて頑張った。

こんなに努力したのに、と思っている時点では、圧倒的に努力が足りない。
一生懸命やっても結果が出ないときに、まだ結果が出ないということは、
まだまだ力が足りないと考えた。

神様は、がんばっている人のところにしか降りてこない。
ただし、あぁ、ほんとにがんばってるなぁ、ではまだこない。
殺してくれえと叫ぶほどがんばっていると、ふと降りてくる。

しかし、決して殺されることも死ぬこともない。

もう一度あの頃の貧乏時代。後に下がることのできない時代を思い出してみたい。

それをもう一度思い出させてくれた彼に感謝、感謝です。

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