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2006年10月28日

楽しんで生きる。貫いて生きる。

山本です。

ここ1〜2日のメディアのニュースは、日本ハムの44年ぶりの日本一のニュースで持ち切り。
特に新庄選手の活躍そして引退のニュースがトピックスとして飾られている。

今年の日ハムの優勝は新庄抜きでは決して語ることはできないだろう。
それくらい彼の残した足跡、影響力は大きい。

新庄自身、決して超一流プレイヤーとはいえない。
守備としては超一流と言えようが、打撃成績を見る限り歴代のスーパースターとは、
その生涯成績では比べ物にならないくらいに劣る。

では、彼はスーパースターではないのか?いや、史上類を見ないスターだ。
では、いったい彼のどこがこれほどまでにファンの心に焼きついたのだろうか?

彼の行動はまさに「宇宙人」と評されたことがあるくらい、異質なところがある。
時として、常人では考えられない、枠から外れた行動・言動をする。
阪神時代、大リーガーだった頃、そして北海道時代それぞれにマスコミを賑わした。

その彼の言動の底辺には何があったのか?

それは何よりも彼自身が「楽しむ。」
「楽しくなければやる意味がない。」といった原点があるからだ。

そう考えて思い起こしてみれば、彼の周りにはいつも笑顔があふれていた。
彼の言動にはいつもワクワク感が漂っていて、我々の想像から越えた、行動があった。
だからこそ、今度はどんなことで楽しませてくれるのかといった、期待感があり、
それにファンは魅了された。

私たちはどうだろうか?
自分の仕事を楽しんでいるだろうか?そこにワクワクする毎日があるだろうか?
世の中の働く人の80%は、働く理由を家族のため、生活のため、そして社会的義務と
考えてはいないだろうか?
もちろん自分のためでもあるし、働いていて楽しいと感じることもあるが、
「楽しくなければ仕事じゃない。」と言い切れる人は希少だと思う。

私の地元の知り合いのある社長は、いつも眉間にしわを寄せている。
たまに笑顔を作っている。それはお得意様の前。
それ以外はいつも眉間にしわがよっている。社員の前でも。一人のときでも。
あれではとても「楽しんでいる」様子にうかがえない。「苦しんでいる」ようだ。

多分、市場の厳しさや売上などが彼をそうしたのだろう。
だけとそれでは誰もついてこないし、自分自身が悲しいと思ってしまう。
楽しむ心が芽生えたときにきっと好転するし、周りがその雰囲気に巻き込まれ、
もっともっと業績が上がるはずだ。


はっきり言おう。当初、私は新庄が嫌いだった。認めたくもなかった。
どこが?というと、先程お話したように、彼の「宇宙人」の行動がどうしても理解できなかったからだ。
事実、彼の成績がとても一流と言えないのに、大リーグへ進もうとした時、
マスコミはこぞって彼を批判したものだった。阪神時代もそうだ。
ファッション、車、生き方いつも彼を批判する人々がいた。私もその一人だった。
しかし、彼は彼自身を変えなかった。新庄はどこまで行っても新庄だった。
ある意味、凄いことだと感じる。彼は彼を貫いたのだ。
今期の引退宣言も彼独特の生き方、考え方を貫いた結果だと思う。

自分を貫くこと。一貫性を保つことはそうたやすくできるものではない。
いろいろな人の批判を耳にすれば、それは誰しでも気に掛かる。
もちろん、人の意見を素直に受け入れることも大事なことだ。
しかし、根本というか、自分の信念だけは変えてはならない。
自分の信じたことはどこまでも貫かなくてはならない。
それこそ「生き様」だし、「魂」だろう。
新庄はそれを教えてくれた。
心からありがとうと言いたい。

そして、いつまでも彼は彼らしく生き抜いて欲しいと思う。

2006年10月24日

課題があるからこそ生きていける。

山本です。

次から次と人生において問題が起きてきます。
やっと一段落したら次の問題。

それらは決してビジネスだけでなく、プライベートを含めて、
ありとあらゆる問題が次々と、日常茶飯事のごとく、降りかかってくる。

「この問題さえ解決してくれれば。」
「何で俺ばっかりにこんなことが。」
という繰り返しのような気がする。

もしかすると、生きていくためには課題や宿題が運命付けられているように。
結局、悩み事がなくなるのは、死んで墓場に入るときだけなのかもしれない。
それまでは所詮悩み続けなければならないのかもしれない。

人生において乗り越えられない問題なんて決してない。

極論から言えば、人生死ぬ瞬間に笑って死ねれば、その人の人生は成功であり、
幸せな人生だったといえるだろう。
仮に80歳で人生を全うするとして、79年と364日間悩みぬいたとしても、
最後の1日でその悩み事が全て解決して、笑うことができればそれは幸せだ。

逆に、79年と364日間幸せであっても、最後の1日で全てをぶち壊してしまうことが
起こってしまえばその人の人生は不幸かもしれない。

所詮死ぬまではその人の人生は分からない。
だからこそもがきながら生きていく。

必ず苦しみの向こう側に、心から笑える日を信じて生きている。
でないととても耐えることなんてできない。

私はこう思う。
苦しめば苦しむほどいい。もっともっと課題を与えてくれと。

「問題を解決しながら生きていく。」
逆に考えれば問題がなければ、課題が与えられなければ、生きていけない。
生きていく価値もない。
難しいかもしれないが、課題・宿題を楽しいことに転嫁できないだろうか?
「また、自分に問題を与えてくれてありがとう。」と。

自分が何のために生まれ、そして生きて、死んでいくのか?
自分はなぜ課題・宿題を与えられ、何のために立ち向かうのか?

人は生まれてから、死ぬまでにその答え探しをしている旅人のようなもの。
だったら生きていくのはどういう意味があるのか?と疑問を持つかもしれない。
また、答えなど探し続けて死ぬまで分からないかもしれない。。

徳川家康がいいました。
「人生は、一生重き荷物を持って、階段を登り続けていくもの。」

大事なことは、「苦しみ」から逃げ出さない。
「問題・課題」を自分の生きていく楽しみに変える。ということ。

答えの分かっている人生なんて味気ないもの。
その答え探しの旅を自分なりに満喫するよう心がける。

それこそ生きていく証なのかもしれない。

2006年10月19日

すべての行動にはなにかのきっかけがある。

山本です。

このブログのタイトルでもあり、私がいつも言う「実践」。
何度、口を酸っぱくして言い続けても、それを実行できない人がいる。
いつも言い訳を口にする人がたくさんいる。

このような体験を何度かすると、正直嫌になる。
あぁ、この人に言っても仕方ないんだな。
「分かっています。やります。」と口では言うけれど、できない人にはできないんだ。
気持ちは動いても、体は動かないんだ。言っても無駄なんだと、思っていました。

ある人が言いました。
「山本さん。それは違うよ。もう少し理解をしてあげたほうがいいよ。」
それに対して、私。
「何をどう理解したらいいんですか?」
すると、
「言い続けてあげるやさしさが必要なんですよ。人生タイミングがあったり、
気持ちのスイッチが入る瞬間があったり、それぞれ人によって違う。
山本さんは山本さん、他人は他人。一生、スイッチの入らない人はいないよ。」

なるほど。と思いました。せかせる、急がせることがいいことではない。
その人の心のスイッチを、そっと入れてあげることも大切だ。
それこそメンターだ。ということに気づきました。

ということは、、、

きっかけを作ってあげればいい、ということかもしれない。

実を言うと私もスイッチが入らない人間だった。
倒産・夜逃げ・自己破産をしたとき、初めてスイッチが入った。
親父の遺影の前で、泣きながら謝った時にスイッチが入った。
そこまで、追い込まなければ、私自身もスイッチが入らなかった。

スイッチが入ったものの気ばかりあせっていた。
今日やらないとだめだ。だけどどこから手をつければいいのか?
全部やらなくては。すぐにでも結果が欲しい。

そんなときにやはり自分に合った、メンターとの出会いがあった。
ゆっくりと包み込むように、実践への道標をしてくれた。

そのメンターが仰っていた。
「山本さん、心のスイッチを入れるのは簡単だよ。毎日感動すればいい。」
「感動?」
「図書館に行って、偉人・伝記の本を読めばいい。
レンタルビデオの感動物を借りてくればいい。
テレビのプロジェクトXを見ればいい。
自分よりも苦しんでいる人、苦しんだ人の話を聞けば毎日スイッチが入る。」

身震いするくらいに感動すればスイッチが入る。
心のそこから熱い物が湧き上がってくる。
その瞬間に机に向かうんだ。

そして、真っ白なノートにこう書こう。
よし、自分にもできるんだ。負けられない。明日は○○だけをやろう。
明日○○ができればきっとゴールが待っている。、

2006年10月17日

表情が豊かであれば、心も豊かになる。

山本です。

私はいつも朝、習慣にしていることがあります。
それは、歯を磨き、顔を洗った後、鏡に向かって笑顔を作る。ことです。
ただの笑顔ではありません。飛びっきりの笑顔。そしてVサイン。
これで私の1日が始まります。もうこれは何十年もやってる習慣。
傍から見ると滑稽な姿に映るかもしれない。

私がなぜこの習慣を続けているのか?
ひとつは、何より自分を鼓舞させるため。
どんな悩み事や辛い日でも必ず笑顔を朝一番で作る。
そのことによって新しい自分をリセットできる。
よし、今日からまた新しい1日が始まるぞと気分を一新できる。

それからもうひとつの理由がある。
それは自分の表情が人にどんな感じを与えているのか?ということを確認する意味がある。
私の主な仕事はリフォームのセールス。
初対面の方が多い。玄関で始めてお客様と接する時。とびっきりの笑顔で、
挨拶をするように心がけている。その自分の笑顔がどんな印象をもたれるのか。
それで、すべてのセールスが決まるといっても過言ではない。と感じている。
だからこそ毎日自分の笑顔をチェックしている。

あるホームページに書いてあったが、人の第1印象は何で決まるのか?
アメリカの言語学者によれば、55%は表情・態度、38%が声の調
子、残りの7%が話の内容だということだ。
そして、その印象が最後までその人のイメージとして残るらしい。

表情が豊かな人間は心も豊かに見える。
顔は心を写す鏡なのかもしれない。もちろん、詐欺師のように表情を作り、言葉巧みな人間もいる。
しかし、人間は最後はだませないものだ。
心の豊かな人間はやはり、表情にもそれが表れる。

また、人は生きてきた家庭、教育によってその人の性格・人格がそのまま表情に現れる。
逆もありきで、日々の中で笑顔を絶やさず、毎日を過ごすことで、心も豊かになると思う。

私が注意しているのは、表情だけではない。話し方にも極力注意している。
何を話すのかも大事だが、声にも相手の心をつかむ秘けつがあると思う。
同じことを話してもその話し方、トーン、間などによって大きく違ってくる。

声の響きは、心の思いの現れといわれている。

まずは笑顔を作ってみよう。
心のそこから声を出してみよう。
「笑顔」「声の力」で人生が変わることがあるかもしれない。

2006年10月13日

喜んでもらえることが何より嬉しい。

山本です。

皆さんもよく感じられると思いますが、年月が経つのが本当に早い。
特に感じるのは子供の成長。
何回かお話しをしたことがありますが、うちの子供も早くも中1と小学5年。
ついこの間生まれて、やっと幼稚園かと思っていたのに、もう妻の身長を追い越す勢い。
何でこんなに早いんだろうとつくづく思っています。

最近、子供たちの成長に合わせて、昔からあったガラクタおもちゃを妻が整理していた。
子供の許可を取って、押入れにあったガラクタを整理して、捨てるためだ。
まぁずいぶん買ったものだというくらいに出てくる、出てくる。

こんなにも買ってあげていたのかと思うくらい。少し過保護すぎたかなと思うくらい。
いったいこれを買うのにいくらの現金を使ったのだろうと思ってしまいました。
よく妻から、「あんたは甘い。」と叱られたものでした。反省をしたのを覚えています。

私は、昔からそうだけど、誕生日とか、記念日とか、クリスマスなどことあるごとに
いろいろな人にプレゼントをするのが好きだった。
親・兄弟・妻・子供といった、家族をはじめ、よくプレゼントをしたものだ。

どちらかというとプレゼントはもらうよりあげるほうが好きだった。
もちろんもらったときも嬉しい。しかし、どこか照れくさいところがあった。
結局考えてみると、プレゼントをすることで、喜んでもらえるその瞬間が好きだったようだ。

極論かもしれないが、人生なんて人に喜んでもらい、あるいは感動してもらい、
そしてそこに自分も感動があったり、喜びがあるのかもしれない。

仕事をしているのも契約してもらった瞬間も嬉しいが、感動してもらったときのほうがより嬉しい。
クライアントさんの成功があり、「山本さんて凄いですね。」と言われることより、
「ありがとうございました。」と言われる瞬間のほうがはるかに嬉しい。

これはある意味自分が生きていく上でのミッション・使命になるかもしれない。
「人に喜びを与え、感動してもらう。そしてそれに生きて行く喜び、感動を感じる。」

このようなミッションをもって生きている人は最高に幸せだろうと思う。
あとは、人に喜び・感動を与えられる【物】を探し出せばいい。

それは仕事であってもいい。
ボランティアであってもいい。
家族に対してでもいい。

ありがとうという言葉って、言われた人よりも、言う人のほうが嬉しい。

2006年10月11日

頑張ることの本当の意味は?

山本です。

すっかり秋めいてきました。
南国高知でもさすがに朝は布団無しではいられません。
でも、日中はまだまだ暑いくらい。日によってはクーラーがいるくらいです。

これから年末に掛けて、私たちの商売(リフォーム)は繁忙期を迎えます。
今、稼がなければいつ稼ぐんだというくらいの時期です。

仕事に忙しくなってくると、やたら忙しいことを自慢する人がいる。
重要な打ち合わせの約束をしていても、忙しいとドタキャンする人もいる。
また、打ち合わせをしていても頻繁に携帯電話が鳴って、とても打ち合わせが進行しない。
終いには、次の約束があるからとそそくさと席を立とうとする。
何のために会ったのかまったく意味をなさない。

確かに人間だから忙しい日もある。私だってスケジュールをこなすのに、
どうしようかと頭をふさぎこむこともある。
しかし、それは1年間で数える程度。
ましてや携帯電話が鳴り続けて仕事にならないなんて私にはありえない。
だとすれば私は暇なんだろうか?そんなことはない。多忙な毎日を過ごしている。
ただ、時間の配分・段取りは人よりうまいと思っている。
所詮、人間に与えられた1日の時間は、誰でも同じ24時間。
それをいかに有効に使うということだろうと思う。

先程の話ではないけれど、やたら忙しいのを自慢する人がいる。
自分には時間が無いことをさも儲けているように、、、。
確かに儲けている人もいる。しかし、ほとんどの場合、その逆が多い。
自分が時間に追われて、肉体労働をしていること。そして、それを頑張ることと勘違いしている。

本当にお金儲けをしている人の場合、ほとんど働かない。
これはある忌み言葉が悪いが、要は自分を見つめたり、次のビジネスモデルを考えたりする、
有効な時間にもっとも重きを置いて、そこに時間をかけている。
だから自室に閉じこもったり、休日になると白紙の用紙と鉛筆を持って考える。

肉体労働で頑張ることはいいことだ。汗をかくことも重要だ。
しかし、それだけでは決して儲けることはできない。
肉体労働はビールを飲んで寝てしまえばそれでお終い。疲れも取れるが何にも残らない。

頭に汗をかく場合はね肉体労働の何倍も疲れる。
疲れるが、明日以降の自分を飛躍的に伸ばすことができる。もちろん儲けることも。

一生懸命働いて(というより、働かされている。)、時間に追われている人は、
本当の充実感を味わっているだろうか?

そんな人にこう話しかけるようにしている。
「すべてを今中断して、休んでみれば?そこから何かが生まれるよ。」

そんな人に限ってこう言う。
「自分じゃないとできない。とんでもないことになる。すべてが終わってしまう。」

いったい何を不安に思っているのだろう。
いったい何に焦っているのだろう。

確かにすべてをとめることはできないかもしれない。
しかし、一度自分の時間を見直してみたとき、最低でも、
1/3は無駄な時間を過ごしていることに気づくだろう。
そして、気づいた瞬間に次のステージが待っている。

2006年10月05日

「頑張ってるんだ。」という言葉の本当の意味は?

山本です。

いつくらいからだろう?
「最近、バタバタしていて。」とか、
「忙しいな。」とか、
「結構頑張っているな。」などと、
自分自身で妙に納得したり、自分をほめてみたりしている。

頑張っているからそれなりの結果も出ている。それにある程度満足もしている。
自分で限界点を決めているわけではなく、もっともっと足りない部分はないだろうかとは考えている。

私自身、やりたいことは山ほどあって、構想をマインドマップに書いたりして、
その書き込んだ紙は30枚を超えている。
いつまでに達成するかを具体的に目標設定し、そのためにはいつまでにどのような
状態になっていなければならないと、常に自分に緩やかな階段を設定し、今日・明日の行動を
システム手帳に書き込むようにしている。

しかし、その予定が最近、少しずつずれ始めている。
その「ずれ」はある程度仕方の無いことだとは正直感じている。
「決して言い訳ではない。できない言い訳をするより、できる方法を考えてるんだ。」と。
もうこの時点でいい訳じみている。

何度か、このブログでも紹介をしたことがあるが、私のあるクライアントさん。
広島のある地方都市で活躍をしている。
彼は今、地元でダントツだ。それでも、満足を全然していない。
満足どころか、不満たらたらだ。吸収できるものに対しては、どこまでも貪欲だ。

私は今、リフォームの専門特化したチラシを作成している。ほぼ完成した。
このチラシは半年以上前から構想を暖めていた。
半年も掛かるほどの物か?と言われると、まったくの嘘になる。
やる気であれば、1週間で完成できるものだ。しかし、なかなか重い腰が上がらなかった。
私にとっては、やるべき事柄の優先順位の中で、後方だったからでもある。
しかし、やらなければならない事項で、半年も掛かってはいけないものであった。

このチラシ作りに、ようやく重たい腰を上げたのは彼のおかげだ。
ある意味、彼にせかされた。
「山本さんのを参考にしたかったのですが、山本さんが忙しいなら、自分でやりますよ。」
の一言で私は目覚めさせてもらった。「これではいけない。」と・・・。

がむしゃらに努力をしているつもりだった。
よくやってるなと自分に満足していた。
ある意味、死に物狂いだったといえるかもしれない。

でも、本当に死に物狂いだっただろうか?

私自身の貧乏時代、どん底時代はどうだっただろう?
死に物狂いどころではない。
殺されるくらい頑張っていた。
これ以上はできないから、これでだめだったら殺してくれ。と、言わんばかりだった。

考える事だってそうだ。これ以上考えることができない。と思った上に考えた。
だから発想の源が培われた。

時間だってそうだ。眠るのが惜しいというところまで頑張って、まだ、まだ、朝にはならない。
と言い聞かせて頑張った。

こんなに努力したのに、と思っている時点では、圧倒的に努力が足りない。
一生懸命やっても結果が出ないときに、まだ結果が出ないということは、
まだまだ力が足りないと考えた。

神様は、がんばっている人のところにしか降りてこない。
ただし、あぁ、ほんとにがんばってるなぁ、ではまだこない。
殺してくれえと叫ぶほどがんばっていると、ふと降りてくる。

しかし、決して殺されることも死ぬこともない。

もう一度あの頃の貧乏時代。後に下がることのできない時代を思い出してみたい。

それをもう一度思い出させてくれた彼に感謝、感謝です。

2006年10月02日

非常識な挑戦者こそ勝利を手にする。

山本です。

私はクライアントさんにいつも言うことがあります。

たとえば、山本流のチラシを作成する人に対して、
「このように、価格だけでなく人間性を訴えているチラシはありますか?」
「ないんだったら今が最大のチャンスです。」とか、
「リフォームの○○のイベント開催されたことはありますか?」
「他店が開催したことがあるのであれば、2番煎じになるから止めたほうがいいですよ。」

このように何事そうですが、何よりも最初に始めた人の勝ちです。
その道でトップになれば、誰も追従することは決してできない。

誰もやったことがないことは、ある意味とても勇気のいること。
試すことにためらうことが非常に多い。
そして、失敗も多い。だから尻込みする。

他人に意見を聞いてみる人もたくさんいる。しかし、他人は無責任だし、
今までの常識で考え、それを答える。
「それは無理だ。」とか、「無謀だ。」とか。

聞いてみるだけおかしいこと。
なぜならばその人の人生はそのことで、変わるわけがないのだから。

非常識な発想をして、非常識な速さで行動する人。
失敗を恐れないチャレンジャーとでも表現できる。
えてして批判を浴びる。また、失敗すれば、「それ見たことか。」
「誰が考えても無謀だ。」と嘲笑する。

事業を起業するときには家族が大反対する。
給料は少なくてもいいから、安定を望む。確かに一理あるかもしれない。

それでは、勇気ある挑戦はただの馬鹿なんだろうか?
成功する人はほんの一部で才能のある人なんだろうか?

それは違うと断言したい。
確かに無謀な挑戦もある。誰が考えてもおかしいこともある。
しかし、その失敗は誰も笑うことはできない。
大事なことはその失敗をどう受け止め、分析し、次に生かすかということ。

挑戦にはお金が掛かることが多い。ある意味、それで人生が掛かる場合もある。
であれば、小額からテストをしてみれば良い。
独立するのであれば、どんなことがあっても手をつけない生活費を、最低半年分貯めてから
挑戦すれば良い。だめであれば撤退すれば良い。

挑戦をしなければ失敗も生まれない。
失敗がなれば、考察も生まれない。考察がなければ成功もありえない。

成功者は常に自分を信じ、自分の直感と発想を信じて非常識に行動する。
そして、必ず失敗の中から、次の挑戦を始める。

ほとんどの人(企業)が、誰かの挑戦から生まれた成功事例を真似て、
2匹目のどじょうを獲得しようとする。
しかし、誰よりも早く挑戦をし、トップに立てば、誰も追いつくことはできない。

あなたはトップになりたいか?
それとも2番・3番になりたいか?